須屋城跡は南北朝時代に須屋地域を治め、菊池氏庶流(分家)であった須屋市蔵隆正の居城と伝えられている。城は東西約200m、南北約200m、の約40000㎡の範囲に築かれた平城で、現在でも空堀後や土塁が残っている。また、陣の山や下屋敷など城に関すると考えられる地名も残っており、平野部に築かれた中世の城跡が残っている例は県内でも少ない貴重な遺跡である。北バイパスの建設の際は、平成13年から発掘調査が実施されたところ、城の空堀や土塁、堀立柱建物跡などの中国から輸入された青磁や白磁の碗、皿、壺などや銅銭、国内で作られた備前焼や瀬戸焼などの陶器、茶器である天目茶碗や風炉、茶臼などのほかに日用雑器である滑石製石鍋、すり鉢、鍋などたくさん出土した。
出土した遺物から、室町時代(約600年)に最も反映していたことや、堀や土塁などの遺構の配置から、城の重要な部分が遺跡の東北部に位置することなどが判明したが、まだ不明な部分が多く残る遺跡である。また、縄文時代早期(約8000年前)から弥生時代や古墳時代、奈良・平安時代など各時代にわたる土器や石器、鉄器などの遺物がたくさん出土したことから、ここは古代から現代にかけて長年にわたり人々が生活していた様子がうかがえる。
(平成20年合志市教育委員会の説明による)